草津宿
草津宿(くさつしゅく)は、東海道五十三次の52番目の宿場です。
草津宿には、田中七左衛門本陣と田中九蔵本陣の二本陣と2つの脇本陣がありました。
草津宿は草津川の南岸にあります。草津川は大津市桐生から琵琶湖に流れる、全長ほぼ十三kmの川であり、平常は水はなく砂川と言われており、江戸時代には川に架橋が許されず、
旅人は川越をするといった、一つの関門でありました。
東海道の江戸方からは、草津川を越えて、堤防沿いに進むと、東横町・西横町と続き、
中山道との合流点に至る。そこで左折し、
一町目から六町目まで続き、宮川を渡って、
最後が宮町です。
また、草津宿は中山道と東海道の分岐点で、その分かれ目に追分道標が立っています。
(草津宿本陣からは歩いて1分程です。)
道標の上部にある現在の火袋は木製ですが、文政4年(1821)頃につくられた「栗太志」に
よると、当時は銅製であったと記されており、大変立派なものであったことが分かります。
中山道からは、天井川である旧草津川をトンネルで抜けると追分に至るが、トンネルが
できたのは明治19年(1886年)のことです。
旧東海道を歩いてトンネルを超えると、町は切れ目なく1丁目・2丁目と商店街が続いて
います。現在は滋賀県草津市。
草津宿本陣
戦国時代以前の「本陣」は戦場において軍の総大将のいる本営のことを指していましたが、江戸時代以降は幕府役人などの宿泊施設として、利用されました。
この本陣は、昭和24年(1949)に国の史跡で2軒あった本陣の内のひとつで、現存する
本陣としては最大級です。
現存しているのは、国史跡の田中七左衛門本陣で、寛永12年(1635)から、明治3年(1870)
本陣廃止に至るまで235年間、本陣は大名などの宿泊施設として、活躍してきました。
また、いつの頃からか、材木商も営んでおられたので、木屋本陣とも言われています。